整理・比較のための年譜


ごちゃごちゃしている評伝を整理・比較するために作成した年譜です。
管理人手持ちの資料のみで作成したため、至らない部分があるかも知れません。

定説となっている出来事・史実はこの色。
擁護系の主張する出来事はこの色。
悪評系の主張する出来事はこの色。
関連資料へリンク(別窓)してる色。(リンク記号:◆ 外部リンク:◇)


出来事
1925年
(大正14年)
秋:森荘已池、宮沢賢治を訪問する途上で「上気した様子の」高瀬露とすれ違う(?)。
1926年
(大正15年・昭和元年)
3月31日:宮沢賢治、花巻農学校を依願退職。


4月1日:宮沢賢治、下根子桜の別宅にて独居自炊の生活を始める。


8月23日:羅須地人協会の活動始まる。


秋:高瀬露、高橋慶吾の紹介で羅須地人協会の会員となる。


12月2日〜29日:宮沢賢治、上京しタイピング、エスペラント語、オルガン、セロの特訓をする。

1927年
(昭和2年)
5月下旬〜6月上旬頃:高瀬露、単独訪問を宮沢賢治にたしなめられる。
           露は賢治に信用されないことを悲しく思うも、以後訪問を遠慮するようになる。



6月9日:高瀬露、紹介者の高橋慶吾に宛ててハガキを出す。 →

     ■その後も露の単独訪問が続き、賢治は押し入れに隠れたり、顔に灰を塗ったり、
      ハンセン病患者であると嘘をついたりする。
1928年
(昭和3年)
前年〜本年5月頃?:宮沢賢治が高瀬露を避けるための数々の奇行や、
          賢治からの布団の贈り物に喜んだ露が新婚生活のための準備を始めたり、
          賢治と露がライスカレー事件を起こしたのはこの期間内。



6月12日〜14日:宮沢賢治、大島へ伊藤七雄・チヱ兄妹を訪問する。


6月中旬頃?:高瀬露、この頃から賢治の態度を恨みに思い、
       女学校時代の同級生である関登久也夫人ナヲに訴え、
       さらには賢治の中傷をして歩きはじめる。



8月10日:宮沢賢治、両側肺浸潤と診断され実家へ戻り臥床。

      ■賢治と高瀬露の関係はこの頃自然消滅する。


秋:森荘已池、宮沢賢治を訪問する途上で「上気した様子の」高瀬露とすれ違う。


12月:宮沢賢治、急性肺炎にかかりこの後約1年臥床生活を送る。
1929年
(昭和4年)
時季不明:宮沢賢治と高瀬露の間に何通かの手紙のやりとりがある。 →

     ■相談事を持ち込んだり、法華経に関心を持つ等の発言などの
      賢治の気を引く試みも効果はなく、露はその後賢治の中傷をして歩くようになる。
      関登久也およびその妻で露の同級生であるナヲの証言がある。
1930年
(昭和5年)
10月2日:高瀬露、宮沢賢治との結婚話のため(?)関登久也宅を訪問、
      関の義母の怒りを買う。 →


10月4日:高瀬露、宮沢賢治から貰ったという本の返却のため関登久也宅を訪問。
      関にその旨言付ける。 →

      ■中傷云々の関一家の証言は、この出来事から作られたものと推測される。
1931年
(昭和6年)
1月:宮沢賢治、東北砕石工場の嘱託技師となる。


9月20日:宮沢賢治、化粧煉瓦の売り込みのため上京、道中夜行列車の中で冷風にさらされたため発熱。


9月27日:宮沢賢治、父の厳命により帰花。


10月24日:宮沢賢治、「雨ニモ負ケズ」手帳に「聖女のさましてちかづけるもの」を記す。 →

      ■この詩は、高瀬露とのことを書いたものであり、
       「聖女のさましてちかづ」き「わが像に釘打」ち「土をば送」った者は露である。
1932年
(昭和7年)
3月31日:高瀬露、この日付でそれまでの勤務先である稗貫郡湯口村(現・花巻市)の宝閑小学校を退職、
       上閉伊郡上郷村(現・遠野市)の上郷小学校に転任。 →


4月11日:高瀬露、小笠原牧夫と結婚。小笠原姓となる。


秋頃:宮沢賢治、「知人の女の人」が自分のことを「中傷的に言っている」ので、
   そのことについて誤解をされないよう「了解を求め」に関登久也宅を訪ねる。 →

   ■その「女の人」は高瀬露である。
    露の女学校時代の同級生である関登久也夫人ナヲの証言がある。


   ■高瀬(小笠原)露、その頃長女を懐妊しており体をいたわるために遠出を避けていた。
1933年
(昭和8年)
9月21日:宮沢賢治、死去(37歳)。
1939年
(昭和14年)
11月:機関誌「イーハトーヴォ」創刊。それに掲載されている高橋慶吾の談話は
    高瀬(小笠原)露の悪評を全国に流布する走りとなる。

12月13日:小笠原露、露草の名で「賢治先生の霊に捧ぐ」と題した短歌5首を詠む。 →
1940年
(昭和15年)
2月21日:前年12月の小笠原露の短歌が「イーハトーヴォ」第4号に掲載される。


9月1日:小笠原露、当時の勤務校である遠野小学校にて「賢治の集ひ」を開催、
     短歌を4首詠む。 →


9月21日:上記短歌が「イーハトーヴォ」第10号に掲載される。
1943年
(昭和18年)
9月20日:関登久也、協栄出版社より「宮沢賢治素描」出版。羅須地人協会員の座談会が収録される。 →
      これ以降発行された宮沢賢治の評伝本における
      (「内村康江」の仮名使用及び氏名伏せではあるが)小笠原(高瀬)露の悪評は
      この座談会やイーハトーヴォ創刊号の高橋慶吾の談話から始まっている。

      ■小笠原露、それらを目にするも「事実でないことが語り継がれている」と
       はっきり言ったほかは多くを語らず。
1945年
(昭和20年)
12月19日:小笠原露、夫と死別。 →
1970年
(昭和45年)
7月23日:小笠原露、帰天(68歳)。 →

      ■「校本宮澤賢治全集」における没月日の「2月23日」は誤記であろうか。 →
1977年
(昭和52年)
高瀬露宛てのものと判明していながら、「高瀬の私的事情を慮って」公表を控えられていた
昭和4年の書簡下書252a、252b、252c及び十五点の下書断片が、
この年発行された「校本宮澤賢治全集」第14巻にて初めて「高瀬露宛て」として発表。 →
高瀬露の名はこの時事実上「初めて」世に出る。

      ■しかしこれらを「高瀬露」宛てとする理由は述べられていない。
1996年
(平成8年)
宮沢賢治生誕100年。関連イベントの開催や書籍の発行などが相次ぐ。
関連映画は2本公開。どちらも高瀬露像を悪評通りに描いている(中傷して歩く描写はない)。
2003年
(平成15年)
7月28日:宮沢賢治と高瀬露の間に具体的な結婚話があったことを匂わせる(?)
      記述のある(昭和5年の項参照)関登久也の日記が北上市の古書店で見つかる。 →



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