やさしい悪魔




(略) 宮沢賢治は、最初のアクシデントにぶつかった。それはアクシデントというよりも、より高い次元の霊能者になろうとして、 わが身に残虐な体罰を加えて止まないヨガ行者のように、労働の中に全身を投げ込むことで、 日々の浄化と贖罪を行じ続けていたような賢治にすれば、試練といったほうがあたっていたのかもしれない。 一人の女性が接近してきたのだ。 かつての教え子、いま羅須地人協会の会員である高橋慶吾が、ある日、突然「先生、この方は××小学校の内村先生です。 先生にお会いしたいと申しますので、連れて来ました」と云ってひとりの若い女性を桜へ案内して来たからである。 狭い地域社会のことである。彼女の耳にも、賢治が花巻農学校の有能な教師だという噂ぐらいは入っていたのであろう。 ただそれが、大正十五年の三月末までで、それ以後の賢治は学校からも町からも離れ、林のなかの一軒家にひとり立てこもって、 みずから耕すと同時に、自分で名付けた羅須地人協会を足場に、「農村を最後の目標として、只猛進」している最中だったなどとは、 知らなかっただろうと思われる。 内村康江(假名)が賢治を見たのは、稲作指導に村にやってきて、 偶然、彼女の職場である小学校において、講話をしたときだった。 そのとき、チラと賢治を垣間見た程度で、ことばを交わしたわけではなかった。 しかしそれ以来、よくは解らないがすばらしい詩集の著者であることだとか、和尚さまみたいなところもあるが まだ独身だということなどが、当然彼女にも聞こえていただろうと想像される。 いま、こうして人を介して、あらためて賢治に会ったのである。 ここまでくるのには、何かしら止むにやまれぬものがあったと云っては、作りすぎになるであろう。 それは譲るとして、垣間見たにすぎない最初の印象が、ごく微かでも、彼女の胸のどこかにまだ消えずに残っていたからに違いない。 その人は、ネクタイ一つしめるでもなく、素足にゴムのダルマ靴をはき、何の風情もない作業着姿でいた。 彼女は、日頃村や町で、嫌というほど見かける男たち――粗野で、尊大で、それでいていじいじした、物欲しそうな男たちにくらべると、 すごく素朴で、濁りがなくて、ふわっとしてもいた。そのふわっとしているところが、何やら頼りなげでないこともなかったが、 他の男たちにはないものだと彼女は思った。 中身がびっしりなのと関係があるのかないのかよく解らないが、黙って向かいあっていても、退屈も困りもしない人柄にみえた。 内村康江は、これまでに見たこともない男のタイプを、宮沢賢治に見いだした。 素封家としてかくれもない我が家から離れて、林のなかの別荘ふうの建物にひとりで住み、 詩作し労働に明け暮れるという生活にも、彼女をそそる何かがあった。 訪問が回を重ねるごとに、彼女はその"何か"に徐々に、こころよく惹かれていった。 賢治の方でも、内村康江の来訪を気易く迎え入れた。 彼女が来さえすれば、家のなかが小ぎれいに片づけられる、という便利さもあったが、 これからやろうと思って想を練っている新しい劇にも、出演してもらいたいという期待があった。 (略) あとで賢治が、「あの人はなかなかしっかりしている」と露評を協会員に漏らしたのをみても、彼女に対する好意が感じられる。 康江が桜にあらわれるときは、花だとかお菓子などを必ず持ってきた。日が経つにつれて、それに、 やもめ暮らしには屹度欠けていて不自由な思いをしながら、オイそれとすぐにはそろわない、 こまごました日用品のようなものまでまざるようになり、足しげく通うようになってきた。 根が、やさしい、よく気のつく、家庭的な人だったのであろう。 ところが賢治は、稗貫郡の土性調査という重労働にちかい仕事をひきうけたときでさえ、 ときの郡長葛博に、「かく山野を跋渉して難儀して土性調査に従事しながら、旅費も弁当料も絶対に受けとらず、 ひまで覚えたことで郡の為に働くことは当然だといふて、相もかはらず丸飯持参で働いてくれるのにはあまりに気の毒で困りぬき候。 もちろん手当などは受取らずに終り申候」と書かせたくらいのかたぶつである。 むろん、肥料の講習で村々に出かけていったときでも、食べものを必ず持参して、村の人たちには迷惑のかからないようにしたし、 何千枚肥料設計をしても、一銭の報酬を受けたことがなかった。 そんな彼が、自分よりずっと若い異性(内村康江はそのとき二十二か三で、顔も肌も小麦いろにちかく、 若さと健康がピチピチあふれているような娘であった)から次々と贈りものをされて、そのまま貰いっぱなしですませるわけがない。 その都度、手づくりの花とか本とかを必ず返して、好意にこたえていたが、その好意が、賢治にはだんだん苦痛なものになってきた。 しかし康江の気持は、低い方へさそわれて流れ下る水のような自然さで、好意から思慕へ、思慕から恋愛感情へと、 急速に変化し、成長していった。それと気づかなかったのは、賢治だけである。 賢治が意識したとき、相手は目をぎらぎらさせて、いや目ばかりか全身を燃えたぎらせて、ぶつかりそうな近さに立っていた。 それはもはやまぎれもなく、成熟した性器を完全にそなえたひとりの異性であった。 賢治は戦慄した。今にもおっかぶさって来そうなその性器に――性器という感覚に。 (略) 村娘 畑を過ぎる鳥の影 青々ひかる山の稜 雪菜の薹を手にくだき ひばりと河を聴きながら うつつにひとものがたる (略) それにしても何と牧歌的な、しかも生々溌剌とした田園風景だろう。青い空、青い雲、青い山脈、青い丘、 青い村落の青い耕地、青い風、青い川……したたり匂うばかりの天地万緑のなかで、ひばりと川をききながら、 (この一行だけでも、にくいくらい素晴らしいではないか)語っているというのである。 村娘は、賢治のしきな絣を着て、赤い縁どりのある黒い手甲をはめて、日よけの笠をかぶっているのかもしれない。 「ひとと」と複数で呼んでいるのは、もうひとり、人がいるからだ。それは当然、野良着姿の村の青年にきまっている。 それはそれでよいが、おれだって今や村の男だ。男のはずだ。いやはずではない。おれはもうまぎれもなく村の衆のひとりなのだ、 と賢治は思う。青の中にくっきりと鋳込まれて、ゆっくりゆっくり話をしているあの男が、おれ自身であっていけないわけは どこにもなく、おれは耕して食べることに決めた百姓として、村の娘やほかの誰とでも、いつでも気さくに語りあえる からだになったのだ。そしてほんとうは、この詩はおれの自画像なのだ…… 短く、陰翳にも乏しくみえるが、それでいて他者から自分までも容れようとしている柔軟な気持の弾みが、 こっちまで豊かに伝わって来そうな詩になっている。 内村康江の接近は、こうしたよい状態がしばらくつづいた後のことだった。 この人の賢治への傾斜は、初めから計画的だったのかと思われるほど、ストレートで積極的であった。 しかし多少の例外をのぞき、人に好意を寄せ、それを恋愛感情にまで高めていくことに、積極的であっては何故いけないのか。 いけない理由などあるはずはない。おたがいに好意をもち、プレゼントとも手土産ともつかない、 日本人なら誰でもやる物のやりとり――贈答のくり返しの過程のなかで、一方の感情は急激に燃え、 も一つは少しずつそれを重荷とも苦痛とも感じて、冷たく避けようとしはじめる。 訪ねてくるとき持って来たもの、その人が帰るときそっと持たせてやったもの…… 好意から始まった何でもない物のやりとりが、男と女の隠微な感情を惑乱させ、やがてつきあいのバランスを崩すきっかけとなった。 だが、内村康江は悪魔でもなければ、悪魔のような女でもなかった。 その時点での彼女は、恋愛にかけてはまだ大人になり切ってはいなかった、と私はみたい。 多少でも彼女に恋のかけひきや手管があり、自分の情熱をコントロールするだけの余裕があったら、 自分をこんなに盲目的に過熱させたり、相手を二度と手の届かない遠くへ、突き放すようなヘマはやらなかったはずだからである。 それを、自分ばかりか相手まで傷つける結果を招じたのは、結局彼女の幼さであり、体当たりでしか表現できなかった 野性的な一途の情熱、つまり彼女の恋の真実と初さ加減を、そっくりそのままさらけ出したのだ、といいたいのである。 このことは別の意味で、賢治についてもいえることだ。 賢治は初め内村康江の印象を、なかなかしっかりした人、として受けとめ、 「このごろ美しい協会員がやってきて何かと助けてくれるので、とても助かる」とか、 「そのうち、新しい芝居をやろうと思うが、これからは女の役は、あの人にたのむことにしよう」などと、仲間たちに話しかけていた。 物怯じしない、ハキハキした物腰が、賢治にこういうことばをはかせたものとみえる。 むろん賢治には何の身構えもなく、彼女が自由に協会に出入りするのにまかせていた。 彼女はまた賢治の本棚の前に立って、しばしば借覧を申し入れるので、 「なかなか本も読む人なんだな」と思い。こころよく借してやっていた。 ところがその本を返すという名目で、賢治がまだ床の中で横になっている早朝に、遠いところからやって来たり、 日によっては、一日に二度も三度も顔を出すようになってきた。むろん、夜分もそうだった。 そのたび、空手ということはほとんどなく、何かしら必ず持ってきたが、しまいにはそれが、ご飯のおかずのような物にかわってきた。 賢治は何心なくそれを受けて箸をつけていたが、ふとそんな自分の態度に、不透明で、理屈にあわないものがまざっているのに気がついた。 一ぺんに三日分くらいのご飯をたいて笊に入れ、井戸の底につるしておき、 副食物といえばトマトとか、漬けもの、なっとう、梅干のたぐいだけ。 そういう極端な粗食に甘んじているに相違ない賢治を案じて、母や妹が、栄養になりそうなものをこしらえて わざわざ豊沢町から届けにいくと、賢治は険しい表情になり、せっかく家を出て、張りつめた気持で働いているのだから、 人を甘やかすような真似はしないでほしいと、悉く突っ返していたのだ。 こうして肉親を泣かせてまで我意を通している自分と、きのう今日知りあったばかりの赤の他人、 それも若い美しい未婚の女性からの親切は、だまって受けている自分――あきらかに同一の人間でありながら、 使い分けをしているような自分の姿が、はっきりとわが目に浮かんできたのである。 賢治は蒼ざめた顔になったが、それでも尚、頬には自嘲の笑いがみえた。 事態をそれほどまで深刻に、まだ考えていなかった証拠である。 彼女の訪問は続く。 それは初夏の花園に飛び交う気ままな蝶――なんとなく、浮気っぽい感じもある蝶のような身軽さであった。 きらきらしていて、むせっぽかった。 「本を返しにあがりました」と、明るく、屈託なげに蝶の娘はいう。 「つまらない物ですが、ちょうど見つかりましたので、ひと口どうぞ――」と包みを出す。かと思うと、 「先生、今日はこの詩集借していただけません?」と首をかしげる小鳥の仕草で訊く。 世間の目さえ憚らなければ、訪ねてくる用事や理由、名目が無限のようであった。 賢治は、狼狽の色を隠すのがやっとだった。途方にくれた。 なぜもっと前に警戒しなかったのかと、悔の心がわいた。恋のせつなさとはどんなものか、それは思うまいとした。 あくる日の羅須地人協会の入口には、「本日不在」の木の札が下げられた。 その木の札が、十日も掛けられっぱなしになっていることもあった。 居るすをつかい、嘘をつき、逃げかくれた。つかまると、賢治は顔じゅうに灰やスミを塗り、 わざとぼろをまとって乞食の風を粧い、彼女の前にあらわれた。 喜劇『饑餓陣営』『ポランの広場』『植物医師』の作者兼演出家の、じきじきの自作自演である。 べつの時、そうと聞いたら愛想づかしをしてあきらめるだろうと思い、自分はレプラだと告白調でいってみた。 やはり駄目であった。おなじ墓穴を掘るにしても、こんなまずい墓穴をほるなんて、めったにあることじゃない。 内村康江は、クリスチャンであった。逃げ出すどころか、そんな不幸な身の上なら尚のこと、 私の生涯をよろこんで捧げさせていただきますと、逆に彼女の殉教的な精神を煽り、 結婚の意思をますます固めさせる結果となってしまった。 日ごろアイロニーやギャグを好み、イロニーを愛し、思いっきりそういう色彩の濃い作品も書いてきた賢治も、 ここでは八方ふさがりの作中人物にすぎないのだ。泣くにも泣けず、笑うにも笑えない作中人物に。

[儀府成一・芸術生活社「宮沢賢治 ●その愛と性」P209〜P225より・1972年]