やさしい悪魔(3・ライスカレー事件について)





だが盲目的に喘ぎ求める恋、脱出するだけの者としか考えられていなかったような恋、 変則的なこの恋にも、終止符がうたれる決定的なときがきた。 その日、羅須地人協会には客があった。近くの村の人たちで、四、五人連れ立って訪ねて来て、 二階で賢治をかこみ、いろいろと農事について相談をし、適切なアドバイスをうけていた。 きく方も教える方も声が大きく、いきいきとした時間の流れが感じられた。 しかし内村康江(引用者注・高瀬露に冠した仮名)の来訪は、この人たちよりもっと早かった。 彼女はいつものように階下にいて、玄関から居間、オルガンのある部屋、お勝手、階段まで掃除をし、 あと片づけがすむと台所に入って、時間をかけて何かひそかにやっていた。 小まめに動きまわる動作は見せかけではなくて、何事にもゆき届きたがる神経と、自信をかたっているようにみえた。 ただ気になるのは、このごろ彼女の顔には、一つの変化が生じてきたことだった。 というのは、桜のこの家(協会)でみる彼女の顔には、以前のようにおどおどしたところがなくなり、 周りの色調にもスパッとはまって、次第に大きく見えるようになってきたからである。 これは、彼女にすれば、この家における自分の坐り場処が、やっと見つかったことを意味し、 もう大丈夫、という、一つの目安だけは掴んだのだといいたかっただろうし、それを明らかに語っている顔でもあった。 環境というものは、しばしば人の心や姿に、このような投影をし、さまざまな暗示や変化をもたらすものなのだ。 内村康江の錯覚はここにあった。自分の顔面に描き出されてきた変化―― 大きく見えるようになってきた顔は、自分の目には、勝利や幸福の象徴のように映ったが、 その変化はもたらされ、あたえられるという自然な姿ではなくて、 自他の愛や祝福とも無縁の場で強引にひったくり、むしり取ったものであることに、気がつかなかったことである。 造られた"変化"には、歪みや危険がつきまとっているだけで、救いも安定もあるわけはない。 そして、このような"変化"はそれ自身の性質として、大きく見えてきた顔をますますのさばらせ、 救いようもないものと形容したいほど醜悪なものの方へ―― 賢治のもっともきらい怖れていたものの方へ、いきつくしかないもののようであった。 正午すぎ、彼女は二階に、食事を持ってあがってきた。みると、何度かにわけて、 こっそりとそこまで運んだのであろうが、人数分のカレーライスであった。 容器は揃いではなかったが、人数分キチンとあった。 村の人たちは恐縮して腰を浮かしたが、それはカレーライスの接待のためというより、 女がいないはずのこの協会で、どういう人か素性の分からない女の人が、いきなり姿をあらわしたためのようであった。 宮沢先生が、嫁をもらったという話はきいたことがないし、さらばといって感じからいって、 妹さんでも、親戚の娘というのでもなさそうだ。 賢治は最近、何とも間のわるい、どのように説明し、その場をとり繕っていいか分からないような目に、 ちょいちょいあわされてきている。何とか二人の間に、二人は他人であることを悟らせるような、 はっきりとした線を引かなければと苦慮しながら、ずるずるに押しまくられ、追いつめられたかたちになっている。 そして今日だ。 賢治は立ちあがって、村の人たちに「この人は××村の学校の先生です」と紹介した。 彼女は頬を少々上気させただけで、慌てないでおじぎを返し、あらためて目をみはり、 躰をかたくしているような来客たちに、一枚々々、カレーライスの皿を渡した。 水を入れたコップも運ばれ、みんなは食べ始めた。 しかしこの家の主人である賢治は、どうしたことか食べようとはしないのだった。 内村康江は寄り添うようにして、「先生も、どうぞ召し上がってください」とすすめた。 如何にも女らしいやさしさが、声にも動作にもあった。 彼女が二度、同じことばを繰り返したとき、賢治は声をころして―― しかし、ここからは、もう一歩もゆずれないといった劃然とした態度で、こたえた。 「私にはかまわないでください。私には食べる資格などありません」 客に出した同じ食事を、その客たちと一緒に、食べる資格がないといってはねつける主人である。 異常でないわけがない。それどころか、これはただごとではないにきまっている。 村の人たちは、そっちの方は見ない振り、聞えないふりを粧いながら、 賢治のことばが、尖った錐の冷たさで、自分たちの鼓膜につき刺さるのをきいた。 ついに絶望が彼女を引き裂くときがきたのだ。 何分か前までは恋に燃え、恋の期待と秘密に、大輪の花のように奢り華やいでいた彼女も、 もう二度と立ちなおれないまでに打ちのめされてしまった。 これからどうなるのか、どうすればよいのか、誰を恨めばよいのか、ここにもっと居てもいいのか、 何もかも混沌としてよくわからない。ただ、これですべてが終わったのだと、 意識のどこかで誰かが喚きちらしているような気がする。 彼女はその微かな喚き声にすがりつく思いで、やっと部屋から出、放心のさまで音も立てずに階下に下りていった。 なぜ? どうして? ……侮辱のいたみと絶望の痛みがあとからきた。 いわば公衆の面前での侮辱であった。どんなことをしても、もはや取り返しのつかない、 侮辱としかいいようのない打撃であった。だが、それだけならまだ我慢もでき、忍べもしただろう。 わからないのはあのことばだ。「私には食べる資格はない」といったあの返事だ。 いったい「食べる資格がない」とは、どういうことなのか。何を意味するのか、何を汲みとればいいというのか。 食べる資格がない――私には食べる資格などありません……なぜ? どうして? …… 村の人たちは、居たたまれないような気拙さの中で、そそくさとカレーライスを食べた。 うまいのかまずいのか分からない、砂を噛むような食事だったろう。 しばらくすると突然階下からオルガンの音がきこえ始めた。それは、どんな曲なのか、 いやどんな曲でもない、ただの騒音にすぎない音であった。 音は黒い渦のように巻きあがり、林のなかの一軒家の静けさをかき乱し、 木立を縫って村の方へ、北上川の方へと突きぬけ、しみひろがっていくのかと思われた。 メロディーもリズムも無視された、故意にそうやっているとしか思われない、極端な高音と低音だけの執拗な音の流れのなかで、 しばらくポツンと座っていた賢治も、耐えきれなくなったとみえて席を立った。一つの激しい意思が彼を動かしているようであった。 階段から、オルガンのある部屋につくまでに、彼は、かつて誰にも見せたことのないきびしい顔になっていた。 賢治はまっすぐに近づき、不快もあらわにいった。 「昼間はみんな働いているのです。オルガンは遠慮してください。やめてください」 賢治の声が、オルガンの音に消されたのではなかった。だが内村康江は、こっちを振り向きもしなかった。 ものも云わず、表情ひとつ動かさず、弾く手も休めなかった。 近づいてきた相手の姿も、咎め立てていることばも、平然と無視することで一切をはね返した。 賢治の表情は、一そう険しくなった。もう赦せない、そういっている目であった。 彼は一歩のり出して、彼女の顔をのぞいた。 何秒かすぎた。ものを云う前に、がくんと姿勢をくずしたのは、賢治の方だった。 彼女の目は、とじられているのではなかった。ちゃんとあいていた。 ただ、それは、ある空間に向けられたままで、もはや何物をも見てはいなかった。 狂気と死以外、告げようとも語ろうともしていない目にみえた。 責が、賢治を打った。 「お前はこれでいいのか? 人間だとでも思っているのか」何者かの声が、耳のそばでした。 「今ならまだ間に合う。助けてやれ。しかしその救いは、お前自身の救いであることも忘れるな」また、誰かの声がした。 悪魔かもしれない、と賢治は思った。それは、甘いやさしい声であった。悪魔が来りてわれに囁く…… のめりそうになり、もって行かれそうになりながら、それでも賢治は勇気をふるって、くるりと向きをかえた。 ある場合、非情だけが人間の救いである。卑怯者の烙印をおされたり、誤解を招くぐらいは、 わが身の破滅や敗北にくらべたら、ものの数でもないはずだ。一たん崩れたらもうおしまい、 どんな手段を講じても取り返しがつかないのだ。と賢治は思った。 ――とにかく、これ以上いてはあぶない。誰のためにもなりはしない…… 依然として、黒い渦を撒きちらすかのように、狂ったオルガンは鳴りつづけていた。 その目はみひらかれてはいたが、もはや物を見ていない目であった。 賢治は蒼ざめ、背を向けてそこから離れた。

[儀府成一・芸術生活社「宮沢賢治 ●その愛と性」P228〜P233より・1972年]