やさしい悪魔(4)




(略・こちらの別窓参照) 十月廿四日は、この詩の題ではなくて、作者の心おぼえで、正確に書けば、昭和六年十月二十四日、ということになろうか。 例の『雨ニモ負ケズ』のある同じ手帳に書き込まれている一篇で、詩というよりもメモとも見えるほど軽いものだが、 よく読めば首尾一貫した詩であることがわかる。 しかもその内容となると、チェホフの短篇をたった八行にちぢめたのかと思うほど、濃いものだ。 相手は――内村康江(引用者注・高瀬露に冠した仮名)だ。 若気の至りから、相手も未婚、自分も独身であることを忘れて、蒲団というとんでもない贈りものをして、 すでに賢治に想いを寄せていた女心を、余計狂奔させたというあの喜劇と悲劇をつきまぜたような悲劇のヒロインだ。 「聖女のさまして」は、彼女がクリスチャンであったことと、その反語として、「悪女」または「悪魔」を対置させているのである。 あとは字義どおりだ。愛も恋もしりぞけられ、結婚の夢さえ破られてしまったのがシャクだといって、 私の像に呪いの釘をうち、足で土をかけるような真似をしているというが、私はなるほど欲望には一つも応じなかったけど、 傷つけもせずそしりもせず、終始一貫、自分のみちを歩いてきたつもりである、というのである。 おしまいの一行によって、客観的にものを見つめ、もはやあきらめの境地だという晏如たる賢治もいるにはいるが、 われわれは一件メモ風のこの八行の詩のなかに、事件後四年めの昭和六年の時点において、 余憤さめやらぬ賢治、まだ釈然としていない、むしろいらだたしげな、も一人の賢治にぶつかるのである。 むろん、賢治がこんな詩を書くのには、それだけの理由と事実があったからだ。 賢治とはちかい親戚である関登久也が書いている。 「亡くなられる一年ぐらい前、病気がひとまずよくなっておられたころ、私の家をたずねて来られました。 それは賢治の知り合いの女の人が、賢治を中傷的にいうので、そのことについて賢治は私に一応の了解を求めに来たのでした。 他人の言に対してその経緯を語り、了解を得るようなことは、かつて賢治になかったことですが、 私は違った場合を見たような感じを受けましたが、それだけ賢治が普通人に近くみえ、 いつもよりいっそう親しさを覚えたものです」 磊落な筆者が、気をつかってあっさりと片づけているようにみえるが、噂のひどさかげんから、 「いつも静かにわらっている」ような賢治をもってしても、とてもじっとしてはいられなかったショックの深さまで、 語ってい、かたりかけてくるような文章である。 (略) それでは賢治にとって、内村康江とは一体何だったのであろうか。 得失と明暗が交錯してにわかには断じがたいけれど、まず云えることは、この人ほど賢治に「女」を見せてくれた人はいなかった、 ということであろう。彼女は賢治に、女の美しさ、妖しさ、やさしさ、なまぐささ、愛しさ―― つまり女のすべてを惜しみなく見せ、つきつけさえした、ただ一人の女であった。 しかも彼女は自分のすべてを献げても、悔いない女のようにさえみえた。 このことは賢治が、その愛を容れる、容れないとは関係なしに、現にあった事実として、認めないわけにはゆかないのだ。 だが、内村康江の恋は不幸であった。宮沢賢治を選んだのは立派だったが、別の意味で相手がわるかった。 彼は禁欲の旗を高くかかげて、その誇りに一筋に生きぬいている人間であった。異性を好きになってはいけなかった。 それは戒律を破ることであり、破滅を意味した。 彼女が迫り、求めれば求めるほど、賢治は冷たく避け、そして逃げたのには、こうした理由があった。 賢治とはこういう人間であることを知らず、また理解できなかったのは、彼女の不幸を一そう深めたのだ。 (略) ここで結論的にいいそえたいことが私に二つある。 一つは、賢治が内村康江をそう思ったり呼んだりしたのはいいとして、われわれまでそれに做って、 この人のことを悪魔のように見たり云ったりするのはやめたい、ということだ。 突然こんな風に書くと、一般の読者は「何を書いているのだろう」と思ったり、「その女の人は、そんな風に見られたり、 書かれたりしている人なのか」と、疑問を抱かれると思う。 これは、この人のことは誰もほとんど語らず、書かなかったこと―― 万一書いても、ほんの何行かでサラリと片づけていたことから生じる疑問にすぎない。 理由は、彼女が平凡な家庭の主婦(それは大へん倖せなことなのだが)で、別に知名度の高い人でもなかったのと、 何より、宮沢家に対する遠慮からだったと思われる。 むろん宮沢家としても、内村家としても、二人のことはあまりふれたくない、ふれてもらいたくない事柄かもしれない。 その気持はわかるけれど、これ以上いつまでもウヤムヤにしておかないで、 この辺で事件の真相とまではいかなくても、ある程度まともな、公平な、と思われる 一応の見方だけでもしておくべきだと思って、私は貧しい自分の仕事のなかに、 この「やさしい悪魔」の章を加えることにしたのである。 (略) 書いておきたいことの二つ目は、実はこの人についてである。 あの"運命のカレーライス"事件を境にして、二人の間は画然と割れたあと、 賢治に対するいろんないやがらせをしたというが、どのようなものだったのだろうか。 「像に釘うつ」と賢治が書いているのをみても、非情に情熱的だったと云われる人柄からおして、 かなり思い切ったことをしたのではないかとも思われる。 今、それに当たっている時間は私にはない。目をつぶって追想の過程としてつづけていえば、 いろんなことが嫌になるくらいたとえあったとしても、とにかく内村康江は、宮沢賢治に求愛し、求婚した、 最初の女性であったという事実、同時に、この人ほど熱烈に賢治に想いを寄せ、 その懐にまっしぐらにとび込もうとした人はいなかった、という点で、その名を何かに録しておきたい人だと思うのだ。 凶作、冷害、不作がくり返される東北の暗鬱な自然と、どこに明るさをもとめたらよいのか分からない 不況下の農村を背景に、田園にユートピアの建設をゆめみ、独居してみずからも鍬をふっている宮沢賢治に、 人間の理想像をみたとばかり、ピタリと照準をあてたイーハトーヴォの一人の若い女性に、私はとにかく拍手をおくりたい。 その恋は破れ、おたがいを傷つけたといっても、それは過程にすぎない。 愛したこと、彼女の愛とは別のことなのだ。 その時点でいうなら、彼女は悪魔ではない。悪魔のような女ですらない。 しいていうなら悪魔の二字の上に、「やさしい」若しくは「可愛い」の文字をかぶせたい。 彼女はそのとき、まさにそのようにやさしい悪魔であった、可愛い悪魔であった、と思う。 (略)

[儀府成一・芸術生活社「宮沢賢治 ●その愛と性」P242〜P252より・1972年]