宮沢賢治と三人の女性




(略) 宮沢賢治が、花巻農学校教諭を依願退職して、花巻町下根子の宮沢家の別荘を改築し、 そこに農耕自炊の生活をはじめたのは大正十五年春であるが、 その年八月には「羅須地人協会」を設立した。 発表式は田舎では誰もが仕事を休む旧盆の十六日であった。 (略) その協会員のひとりが、花巻の西方の村で小学校教員をしている女の人を連れて来て宮沢賢治に紹介した。 その女の人は村へ稲作指導にきた賢治を彼女の勤めている学校で、はじめて見たのであった。 そののち彼女はときどき賢治を下根子の家に訪問するようになった。 はじめのうちは、散らかり勝ちなそこらここらが綺麗になったり、 彼が計画している芝居に出演して貰うことなどを考えたり、 しっかりしたひとだと協会員にも語ったりして彼も喜んでいるようだった。 ひとりの生活ゆえ、女人も訪問しやすかったであろうし、かつ男ひとりの生活の不自由さを見て、 訪ねてくるときは花とか食べ物、卓上用品などを持ってくるのも、当然のことであった。 賢治というひとは誰かに物を贈るか、御馳走することは、なににもまして好きであったが、 他人からそうされることはできるだけ避けているのであった。 肥料の講習に出かけるときでもいつも食べ物を持って行き、決して村のひとたちに御馳走にならないように心がけていた。 弁当を持たないで行ったときは村の豆腐屋で豆腐を食べ、ときには麦煎餅を買って昼餐のかわりにした。 だから彼女の好意に溢れた贈物は、だんだんと彼を恐縮させ、精神的に息づまらせて行った、 もちろん、そのたびごとに彼は本とか、花とか何かしらきっと返礼はしていたがしばらくすると、 どうやら彼女の思慕と恋情とは焔のように燃えつのって、 そのため彼女はつい朝早く賢治がまだ起床しない時間に訪ねてきたり、 一日に二回も三回も遠いところをやってきたりするようになった。 彼はすっかり困惑してしまった。「本日不在」の札を門口に貼った。顔に墨を塗って会った。 あるとき協会員のひとりが訪れると、賢治はおらず、その女の人がひとりいた。 「先生はいないのですか。」 と彼がまぶしそうに恐る恐るきくと、 「いません――。」 と彼女は答えた。 「どこへ行ったのでしょうか?」 と重ねてきくと、女は不興そうに 「さあ、解りません――。」 と、ぶっきら棒に答えた。 仕方なく彼が帰ろうとすると、俄かに座敷の奥の押入の襖があいて、 何とも名状しがたい表情の賢治があらわれ出たのであった。 彼女の来訪を知って賢治は素早く押入の中に隠れていたのであった。 一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであった。 国道から田圃路に入って行くと稲田のつきるところから、やがて左手に薮、右手に杉と雑木の混有林に入る。 静かな日差しのなかに木の枯れ葉が匂い、堰の水音がした。 ふと向こうから人のくる気配だった。私がそれと気づいたときは、そのひとは、もはや三四間向うにきていた。 (湿った道と、そのひとのはいているフェルトの草履が音をたてなかったのだ。) 私は目を真直ぐにあげて、そのひとを見た。 二十二三才の女の人で和服だった。派手ではなかったが、上品な柄の着物だった。 私はその顔を見て異常だと直感した。 目がきらきらと輝いていた。そして丸顔の両頬がかっかっと燃えるように赤かった。 全部の顔いろが小麦いろゆえ、燃える頬はりんごのように健康な色だった。 かなりの精神の昂奮でないと、ひとはこんなにからだ全体で上気するものではなかった。 歓喜とか、そういう単純なものを超えて、からだの中で焔が燃えさかっているような感じだった。 私はそれまで、この女の人についての知識はひとかけらも持ち合わせていなかった。 ――が、宮沢さんのところを訪ねて帰ってきたんだなと直感した。 私は半身、斜にかまえたような恰好で通り過ぎた。 私はしばらく振り返って見ていたが、彼女は振り返らなかった。 畑のそばのみちを通り過ぎ、前方に家が見えてきた。 二階に音がした。しきりにガラス窓をあけている賢治を見た 彼は私に気がつくとニコニコッと笑った。明るいいつもの顔だった。 私たちは縁側に座を占めた。彼はじっと私の心の底をのぞきこむようにして 「いま、とちゅうで会ったでしょう?」 といきなりきいた。 「ハァー」 と私が答え、あとは何もいわなかった。少しの沈黙があった――。 「おんな臭くていかんですよ。」 彼はそういうと、すっぱいように笑った。 彼女が残して行った烈しい感情と香料と体臭を、北上川から吹きあげる風が吹き払って行った。 そして彼はやっと落ち着いたらしかった。 (略)

[森荘已池・津軽書房「宮沢賢治の肖像」P158〜P160より・1974年(初出・1949年)]