宮沢賢治と三人の女性(2・ライスカレー事件について)




(略) 花巻の近郊の村のひとたちが、数人で下根子に訪ねてきたことがあった。 彼はそのひとたちと一緒に、二階にいたが、女人は下の台所で何かコトコトやっていた。 村のひとたちは、彼女のいることについてどう考えているかと彼は心を痛めた。 彼女は彼女の勤めている学校のある村に、もはや家もかりてあり、世帯道具もととのえてその家に迎え、 いますぐにでも結婚生活をはじめられるように、たのしく生活を設計していた。 彼女は、それほど真剣だった。 彼は女人に、布団を何かの返礼にやったことがあった。 その布団が彼女の希望と意志とを決定的なものにしたものかも知れなかった。 みんなで二階で談笑していると、彼女は手料理のカレー・ライスを運びはじめた。 彼はしんじつ困ってしまったのだ。 彼女を「新しくきた嫁御」と、ひとびとが受取れば受取れるのであった。彼はたまらなくなって、 「この方は、××村の小学校の先生です。」 と、みんなに紹介した。 ひとびとはぎこちなく息をのんで、カレーライスに目を落したり、彼と彼女とを見たりした。 ひとびとが食べはじめた。――だが彼自身は、それを食べようともしなかった。 彼女が是非おあがり下さいと、たってすすめた。――すると彼は、 「私には、かまわないで下さい。私には、食べる資格はありません。」 と答えた。 悲哀と失望と傷心とが、彼女の口をゆがませ頬をひきつらし、目にまたたきも与えなかった。 彼女は次第にふるえ出し、真赤な顔が蒼白になると、ふいと飛び降りるように階下に降りていった。 降りていったと思う隙もなく、オルガンの音がきこえてきた。 そこは階下の座敷の隣り、音楽をやるために、わざわざ設計した部屋であった。 その音楽は彼女の乱れ砕けた心をのせて、荒れ狂う獣のようにこの家いっぱいに溢れ、 野の風とともに四方の田畠に流れつづけた。 顔いろをかえ、ぎゅっと鋭い目付をして、彼は階下に降りて行った。 ひとびとは、お互いにさぐるように顔を見合わせた。 「みんなひるまは働いているのですから、オルガンは遠慮して下さい。やめて下さい。」 彼はオルガンの音に消されないように、声を高くして言った。 ――が彼女は、止めようともしなかった。 深く鋭い気まずさと恥しさに、彼は逃げ出してしまいたかった。 いつも笑いをふくみ、明かるいひとであったが、階下から上がってきた彼は、表情に挙動に、 隠すことのできない怒りをあらわし蒼黒くさえ見えてひとびとを困惑させた。 (その怒りは彼自身の精神へ向けられているものにちがいなかったが――) ひとびとも彼も、しばらくしいんとしているなかを、オルガンの音はやまなかった。 (涙があとからあとから湧くように流れ、手を足を動かさないでいると、わくわくとふるえるのが、どうしてもとまらない。 死人のように真蒼な顔をしている彼女の耳には、自分のひくオルガンの音が、まるで遠く微かな、 夜の果てから聞えてくるもののようにしかきこえなかった。)

[森荘已池・津軽書房「宮沢賢治の肖像」P167〜P169より・1974年(初出・1949年)]