宮沢賢治と三人の女性(3)




(略) 「私はレプラです」 恐らく、このひとことが、手ひどい打撃を彼女に与え、心臓を突き刺し、 二度とふたたびやってこないに違いないと、彼は考えたのだ。 ところが逆に、彼がレプラであることそのことが、彼女を殉教的にし、 ますます彼女の愛情をかきたて、彼女の意思を堅めさせたに過ぎなかった。まさに逆効果であった。 このひとと結婚しなければと、すぐにでも家庭を営めるように準備をし、 真向から全身全霊で押してくるのであった。彼女はクリスチャンであった。 「私はレプラです。」 という虚構の宣言などは、まったく子供っぽいことにしか見えなかった。 彼女は、その虚構の告白に、かえって歓喜した。 やがては彼を看病することによって、彼のぜんぶを所有することができるのだ。 喜びでなくてなんであろう。恐ろしいことを言ったものだ。 しかしながら以上のような事件は、昭和三年に自然に終末を告げた。 「昭和三年八月、心労の疲労を癒す暇もなく気候不順による稲作の不良を心痛し、 風雨の中を東奔西走し、遂に風邪をえ、やがて肋膜炎となり帰宅して父母のもとに病臥す。」 という年譜が、それを語っている。 ところが、話は尾をひいていた。 「宮沢賢治素描」のなかで関登久也は次のように書いている。 題は「面影」である。 (略・こちらの別窓参照) この文章でもわかるように、宮沢賢治を、じぶんの愛情のとりこにしようとして、 ついに果たさなかった女人は、いろいろ賢治について悪口をいってまわったものらしかった。 そのことについて、とても肚ににすえかねることがあって関登久也を訪ねて、何かいいたくてやってきたのである。 というのはその女人は関登久也夫人とは女学校で同級生であったというような関係もあった。 関氏夫人の母は賢治の伯母ヤスである。ヤスは政次郎妹で、岩田金次郎に嫁いだ。 その長女が関夫人なのである。 (略) こういうような伯母いとこ、その夫などへ、その女人が中傷していることについて話しにいったということは、 若いころの賢治だったら、ばかばかしいと一笑にふしたであろうが、 デクノボウになろうと思いたってからの賢治だったから、あんまりとらわれないで、 さっさと弁解すべきことはしておこうと関家を訪ねたのであろう。 (略) (略・こちらの別窓参照) こういう一章がある。 その女人がクリスチャンだったので、「聖女」というように、自然に書き出されたものであろう。 足をもって土をかけたという弟子のことと、この女人のことは、こんなにあとまでも、彼の心にかげをおとした。 けれどもそれはふとした心へのかげりを書きとどめたもので、 そういうことで心がいっぱいになっていたわけではなかった。 (略)

[森荘已池・津軽書房「宮沢賢治の肖像」P169〜P173より・1974年(初出・1949年)]