12 「聖女のさましてちかづけるもの」




(略) この詩を読むと、すぐ私にはある一人の女性のことが想い出される。 一九二六(大正十五)年の四月、自耕自炊の独居生活をはじめた賢治は、その八月「羅須地人協会」というものを設け、 農学校の卒業生や均衡の農村の人々のために農業に関する諸科学の講義をしたり、音楽や文学や劇などの勉強をしたり、 子供の為に童話会を開いたり、近所の村々で肥料相談所をつくったり、農業記述の指導講話をしたりしはじめた。 その頃、賢治の住居に近い向小路の一人の若い女性が、協会員と同様に出入りし始めた。 この女性を今まで多くの人は「内村康江」なる仮名を使っていたが、校本全集第十四巻の年譜 (一九二七<昭和二>年の条)の註には次のように記してある。 (略・こちらの別窓参照) なお同書年譜本文に、羅須地人協会のメンバーであった青年たちの賢治の没後二年頃の「先生を語る」座談会の要約を挙げているが、 次に速記録の一部を原文の儘引用しておく。といってもテープレコードによるものでも、専門の速記者の手になるものでもないが、 賢治とこの女性との関係を物語る重要な資料であると思うからである。 原拠は関登久也著「宮沢賢治素描」(昭和十八年九月、協栄出版社刊)所載のものである。 なおこの記録は関の「続宮沢賢治素描」(昭和二十三年、真日本社刊)にも、「賢治随聞」(上記関の著を森荘已池が改編したもの、 昭和四十五年二月、角川書店刊)にも収録してあるが、ここでは初刊本によった。 因みに、この座談会のメンバーは町の青年K、村の青年C、Mの三人であるが、Kは向小路の高橋慶吾であり、 彼は当時東京から帰郷した青年で農業はしておらず、賢治の所に最も繁く出入していた人である。 (略・こちらの別窓参照) 女性は賢治を既に述べたように小学校や女学校でも知っていた筈であるから、 K氏に頼んだのは羅須地人協会のメンバーにしてもらう為だったのではあるまいか。 その時期は賢治が羅須地人協会を開いてから間もなく、恐らく一九二六(大正十五)年の終りか翌年はじめ頃であろう。 次の端書は一九二七(昭和二)年六月九日のものである。 (略・こちらの別窓参照) (略) とにかく賢治が彼女の単独来訪を拒否した最初は、この手紙によって明らかである。 しかし高橋氏の話によると、この後も彼女の単独訪問は繁々続いていた。 しかして、顔に灰を塗る(墨という人もあるが高橋氏は灰であるという)とか、戸棚にかくれるとか、不在と偽るとか、 森荘已池が訪問すると、彼女の辞去後の室内の女臭さを嫌って風を入れたとか、同夜宿泊すると彼女が泊まったと間違われるのを 慮って一夜中電灯をつけておいたとか(森著「宮沢賢治と三人の女性ー昭和二十四年一月、人文書院刊ー、 同講演「宮沢賢治と三人の女性」ー昭和三十九年九月五日、盛岡市城西中学校に於ての自筆要旨ー等)いった、 むしろ奇矯ともいうべき賢治の行動は、何れも前掲の手紙以後であったと推定される。 (略) 二人の手紙の往復は賢治の発病後も継続しており、クリスチャンの高瀬女史(原文表記:T女史)は法華経信者となって 賢治との交際を深めようとしたり、持ち込まれた縁談を賢治に相談することによって賢治への執心をほのめかしたりしたが、 賢治の拒否の態度は依然変わらなかったらしい。その結果高瀬女史は賢治の悪口を言うようになったのであろう。 この点、高橋は否定していたが、私は関登久也夫人(賢治の妹シゲの夫岩田豊蔵の実妹ナヲ)から直接きいており、 賢治が珍しくもこの件について釈明に来たことも関から直接きいている。

[小倉豊文・筑摩書房「宮沢賢治「雨ニモ負ケズ手帳」研究」P103〜P107より・1996年]