「宮沢賢治伝」の再検証(二)―<悪女>にされた高瀬露―




はじめに 賢治をめぐる女性は余り多くない。「初恋の人」といわれているのは盛岡中学校を卒業して間もなく 賢治が私立岩手病院に入院した時に心を寄せた看護婦で(文語詩「公子」の下書稿(一)の<きみわれと 年も同じく>が 彼女を指すものであれば)同年齢の女性である。次に「三原三部」の伊藤チエがいる。 そして本稿のテーマとなる高瀬露である。 求道者、聖賢としての賢治像が戦中、戦後の十年足らずの一時期の間に急速に造型されていった。(注1) <コスモスの所持者>の称号を与えた高村光太郎や戦時中の精神主義の尾を引いている谷川徹三の 「雨ニモマケズ」評価に代表される観念的な賢治聖賢論は一九五五年六月二〇日ユリイカ刊の中村稔の 『宮澤賢治』によって痛打を与えられ賢治聖人化現象は、一時期停滞を見せたが根絶は出来ず、 程なく、角度を変えた新しい聖人像造型をふくめ賢治聖人化が復活して来た。 (ところで最近は逆コース的反動化社会の中で生誕百年を迎え、更に目に余る賢治の観光資源視、 聖人化現象も起こっている。) それで賢治をめぐる女性たちも高瀬露を除いて聖人賢治にふさわしい、藤原嘉藤治のことばを借りれば <久遠の女性、叡智の女性><理想の聖女>(注2)であって欲しかったようである。 初恋(Erste Liebe)(注3)の看護婦は、例えば、<すがすがしい白衣の天使>(注4)(川崎弘子出演の映画 「月よりの使者」以来の通俗的な流行語)とイメージされている。 「三原三部」の女性は、<かっきりと知的で、しかも聡明といふよりは匂はんばかりに美しい女性>(注5)と 紹介されている。この人は、伊藤チエと名前も住居も賢治とのかかわりもはっきりしている。 初恋の看護婦は、賢治の書いたメモにもとずいて(注6)<木村>という姓だが名は不詳の女性という 説が古くからあったが、当時の岩手病院の看護婦の名簿には木村という看護婦は記載されておらず、 なにかの配慮からの仮名ではといわれている。 もう一つの説は、川原仁左衛門が一九七二年五月二十五日、自費出版した『宮沢賢治とその周辺』で 岩手病院の当時の看護婦の名から岩手県紫波郡日詰町の高橋ミネという女性を推定しているが、 その人が初恋の人であるという納得のいく根拠は示されていない。 川原は、賢治と同年というが、その後佐藤勝治の調査によって彼女は一八九七年(明治26)年七月生まれで 賢治の三歳齢上であることもわかった。川原は彼女について<美しい看護婦で、窓側で時々夢見る瞳で 外を眺めている>(注7)と述べているが川原は若い頃のそんな彼女の姿を見たことはなかったのである。 高橋ミネは一九七一年に七十八歳で死去している。川原が彼女のことを知ったのはその前後の頃と思われる。 川原もまた聖人賢治にふさわしいロマンチクな女性として想像上の彼女を描いているのである。 これに対して高瀬露の場合は、小倉豊文の言葉をかりれば<「押しかけ女房」的な痴態にも及んだ「悪女」>とされているのである。 露の<「悪女」>ぶりについては、戦前から多くの人々に興味的に受けとめられ確かな事実の如く流布し語り継がれてきた。 多くの本や論考にも取上げられ周知のことなので詳しい記述は必要でないように思われるが、 この話はかなり歪められて伝わっており、不思議なことに、多くの人は、これらを何らの検証もせず、 高瀬側の言い分は聞かず一方的な情報のみを受け容れ、いわば欠席裁判的に彼女を悪女と断罪しているのである。 賢治もまた、彼の耳に入る誤伝に基づいて彼女をさけ、確かめもせず彼女に対応したと思われる節も感じられる。 それで繁をいとわずこれまでの情報を可能な限り引用し、証言、根拠とされる資料を再検証し真実を明らかにしたいと考えている。 ただ、高瀬側をはじめ関係者の遺族の今更、静まっている池面を波立てないで欲しいという気持も尊重しなければならない。 本年三月河出書房新社から出した共著『図説宮沢賢治』に高瀬露の写真を載せたいと思い高瀬家を継いだ実弟の妻女の方 (花巻市に在住)に手紙で趣旨を申上げ写真の提供をお願いしたが御返事がなかった。 集合写真の中の高瀬露を抽き出して使うことも考えられ、集合写真なら所在もわかっており入手出来るが 間に合わず掲載を見送ったのである。 そのような事情もあるのでどの程度まで書けるかが、一つの問題である。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 注1 「「宮沢賢治伝」の再検証(一)」(『七尾論叢』第10号 一九九六年三月 七尾短期大学刊)二ページ下段〜四ページ上段。 注2 藤原草郎の筆名で一九四一年八月『新女苑』第五巻八号に発表の「宮澤賢治と女性」参照。 注3 「文語詩篇ノート」45ページ(校本全集12巻上五四四ページ) 注4 多田幸正『宮澤賢治愛と信仰と実践』一九八七年七月一〇日有精堂刊所収「初恋と<まことの恋>」、    森荘已池『宮沢賢治と三人の女性』「3『三原三部』の人」。 注5 「文語詩篇ノート」45ページ(校本全集12巻上五四四ページ) 注6 佐藤勝治「火のごとくきみをおもへど」(その一) 『宮沢賢治』第2号 一九八二年(昭和57)六月一日洋々社刊。 注7 五六堂という印章店を経営。篆刻家として著名。盛岡地方裁判所の印章鑑定人を嘱託されていた。    友人鏑邦夫の父であり、息子の友人ということとわたくしが賢治に関心をもっていると知って    非常に好意的でまだ復刻版もなく稀覯書であった戦前版の『イーハトーヴォ』を見せてくださった。    また賢治関係の取材にいろいろと便宜を図ってくださった。

[上田哲・七尾短期大学「七尾論叢第11号」P90〜P89より・1996年]