「宮沢賢治伝」の再検証(二)―<悪女>にされた高瀬露―(2)




高橋慶吾と高瀬露 高瀬露と賢治のかかわりについて再検証の拙論を書くに当ってまず森荘已池『宮沢賢治と三人の女性』 (一九四九年(昭和24)一月二五日 人文書房刊)を資料として使うことにする。 堀尾青史の『年譜 宮澤賢治伝』と共に初めての実証的な賢治の伝記的研究として今日も高く評価されている 境忠一の『評伝宮沢賢治』が賢治と高瀬露の<いきさつを<もっとも具体的な>記述されている資料と評価し、 この本をもとに論述している。またかなりの量の引用もしている。境だけでなく一九四九年以降の 高瀬露と賢治について述べた文篇はほとんどこの森の本を下敷にしており時に関登久也の『宮沢賢治素描』 などをも併せて参考にしているのが実情である。 以上のことからこのテーマの再検証のため森荘已池『宮沢賢治と三人の女性』の証言としての信憑性を究明する必要があると思ったのである。 高瀬露と賢治のかかわりの部分を繁をいとわず出来るだけ引用したいと思っている。  宮沢賢治が、花巻農学校教諭を依願退職して、花巻町下根子の宮沢家の別荘を改築し、  そこに農耕自炊の生活をはじめたのは大正十五年春であるが、  その年八月には「羅須地人協会」を設立した。(中略)  (1)その協会員のひとりが、花巻の西方の村で(2)小学校教員をしている女の人を連れて来て宮沢賢治に紹介した。  その女の人は村へ稲作指導にきた賢治を彼女の勤めている学校で、はじめて見たのであった。  そののち彼女はときどき賢治を下根子の家に訪問するようになった。  はじめのうちは、散らかり勝ちなそこらここらが綺麗になったり、  彼が計画している芝居に出演して貰うことなどを考えたり、  しっかりしたひとだと協会員にも語ったりして彼も喜んでいるようだった。  ひとりの生活ゆえ、女人も訪問しやすかったであろうし、かつ男ひとりの生活の不自由さを見て、  訪ねてくるときは花とか食べ物、卓上用品などを持ってくるのも、当然のことであった。  賢治というひとは誰かに物を贈るか、御馳走することは、なににもまして好きであったが、  他人からそうされることはできるだけ避けているのであった。(中略)  だから彼女の好意に溢れた贈物は、だんだんと彼を恐縮させ、精神的に息づまらせて行った、  もちろん、そのたびごとに彼は本とか、花とか何かしらきっと返礼はしていたがしばらくすると、  (3)彼女の思慕と恋情とは焔のように燃えつのって、そのため彼女はつい(4)朝早く賢治がまだ起床しない時間に訪ねてきたり、  一日に二回も三回も遠いところをやってきたりするようになった。  彼はすっかり困惑してしまった。(5)「本日不在」の札を門口に貼った。顔に墨を塗って会った。  あるとき協会員のひとりが訪れると、賢治はおらず、その女の人がひとりいた。  「先生はいないのですか。」  と彼がまぶしそうに恐る恐るきくと、  「いません――。」  と彼女は答えた。  「どこへ行ったのでしょうか?」  と重ねてきくと、女は不興そうに  「さあ、解りません――。」  と、ぶっきら棒に答えた。  (6)仕方なく彼が帰ろうとすると、俄かに座敷の奥の押入の襖があいて、  何とも名状しがたい表情の賢治があらわれ出たのであった。  彼女の来訪を知って賢治は素早く押入の中に隠れていたのであった。  (7)「私はレプラです」  恐らく、このひとことが、手ひどい打撃を彼女に与え、心臓を突き刺し、二度とふたたびやってこないに違いないと、彼は考えたのだ。  ところが逆に、彼がレプラであることそのことが、彼女を殉教的にし、  ますます彼女の愛情をかきたて、彼女の意思を堅めさせたに過ぎなかった。まさに逆効果であった。  このひとと結婚しなければと、すぐにでも家庭を営めるように準備をし、  真向から全身全霊で押してくるのであった。彼女はクリスチャンであった。  「私はレプラです。」  という虚構の宣言などは、まったく子供っぽいことにしか見えなかった。  (8)彼女は、その虚構の告白に、かえって歓喜した。  やがては彼を看病することによって、彼のぜんぶを所有することができるのだ。  喜びでなくてなんであろう。恐ろしいことを言ったものだ。 引用を予定している部分はかなり多いのですべてを一挙に掲載するより、適当に分載し解説する方が 論を進めるためにも読者の理解を得るためにもよいと思われるので一応ここで一区切りして若干の解説をする。 (1)<その協会員のひとり>というのは、当時、羅須地人協会の近くに住んでいた高橋慶吾という 高瀬露より五歳ほど歳下の無職の青年であった。高瀬露とは現在の日本キリスト教団花巻教会、当時花巻バプテスト教会で知り合っている。 『校本宮沢賢治全集』(第十三巻書簡)の「受信人索引(付・略歴)」の「高橋慶吾」の項に<少年時よりキリスト教信者だったが>と 記載されているが誤りである。花巻のバプテスト教会の在籍名簿には会員としての記録はない。 高橋は東京に一時行っていた時期があり、その時他のプロテスタント教派で受洗して、花巻には自分の所属教派の教会がない場合 客員会員としてバプテスト教会に所属したことも考えられるので調べたが、その記録もない。 実は、花巻地方は保守的、世俗的気風の強い土地柄で中々キリスト教が定着しなかった。 花巻に置ける再宣教後のキリスト教徒の動向は一八七八年六月一九日花巻の箱崎ヨウスケ(原文ラテン語・氏名・地名ローマ字) という十九歳の青年が天主公教会のフランス人宣教師プロトランド神父から洗礼を受けた記録が残っている。 これが現存する一番古いものである。その頃まだカトリックの教会は花巻にはなく巡回伝道か、箱崎が盛岡に出向いての入信かは不明である。 カトリックは一八八七年頃花巻城跡の附近の坂の上に盛岡天主公教会の管理下にある伝道所を花巻城跡附近に置き 浅井富人伝道士を派遣していた時期があるが、短い期間で閉鎖したという。 高橋や高瀬の通っていた教派のバプテスト教会は当時浸礼教会といっていた。花巻に一番早く伝道のベースを置いたのはこの教派である。 一八八〇年十一月十日講義所が開設されたが一八八五年九月にはこれも閉鎖になった。その後長年この教派の伝道は見られなかった。 次に日本基督教会(―教派―太平洋戦争中の宗教政策によって作らせられた現在の日本キリスト教団とは異なる。)が 一八八九年盛岡の日本基督教会から林竹太郎伝道師、三浦徹教師が交互に来花巡回伝道を毎週一回行い 翌年六月から内田芳雄伝道師が定住し講義所を開設しブルベッキ博士や島田三郎らの知名人を招いての公開演説会を開き 盛んに伝道につとめ十六、七人の信徒を得るようになった。 一八九一年頃にデサイブルス派(クリスチャン教会)も花巻に教会をもち福井捨助(号松湖)が牧師として在住していた。 北村透谷がこの教派の伝道を扶けるため一八九三年夏この教会に立ち寄っている。 この教会も一九〇〇年代にはなくなっている。いずれも教勢の伸展が思わしくなく撤退しているのである。 なお、一八九一年(明治24)〜九三年ごろニコライが佐藤庄五郎家の空家に仮寓し、正教会の伝道所を開設したという、 少々日本の近代キリスト教会史を知っている者には噴飯の伝説が郷土史家によって伝えられ、一部の賢治研究書が引用している。 ニコライは一八七〇年には掌院の位で日本宣教の最高責任者となり八〇年には主教(仏教の僧正に当る)に叙聖され、 九一年には主教座聖堂である東京復活大聖堂(ニコライ堂)を建てたばかりで忙しく、しかも全日本の正教会を統括する 責任者の身で花巻に仮寓し、伝道するなど在り得ない。 石川喜三郎『日本正教会伝道誌』合本(一九〇一年正教会刊)にも花巻に正教会伝道所があったことは記載されていない。 岩手の既成の教会は一九一〇年代後半に入るまでこの地方の伝道を殆ど積極的には行っていない。 しかし、一九〇〇年代に入って斉藤宗次郎ら少数の無教会派(内村鑑三の聖書研究会)のキリスト者が出て来る。 然し積極的な活動はしていない。 浸礼教会(バプテスト)は盛岡をベースに岩手県北への伝道に力を入れていたが、一八九七年遠野の開拓伝道をはじめた。 この遠野の夏期伝道で活動した佐藤卯右衛門神学生は牧師となって一九〇六年五月遠野に定住牧会した。 この新進気鋭の佐藤牧師は花巻地方のバプテスト教会の復活に意欲をもち一九〇八年頃から巡回伝道をはじめまた、 この派の盛岡の教会(現在の教団の内丸教会)からの教職でない熱心な信徒の篤志伝道も断続的にあった。 折からの<大正デモクラシー>の気運は保守的な花巻でも若い人々の間におよびキリスト教会の雰囲気に惹かれ集るようになって来た。 高橋慶吾もそういう中の一人であったらしい。ただ花巻のバプテイスト教会が巡回教会から独立した教会として定着するのは 一九三〇年ごろでその基礎作りをしたのは林文太郎牧師、阿部治三郎牧師である。 高橋慶吾が出入りし、高瀬露が洗礼を受けたのは佐藤卯右衛門の巡回教会時代である。 ただ日本社会の一般的な道徳観にくらべかなり厳しいキリスト教倫理を受け容れ、 イエスを受肉せる神子キリストと福音的信仰告白をして受洗に至る者は少なかった。 高橋慶吾も信仰には至らないで教会を離れていったのである。 高橋慶吾を戦前から知っている、第一次『イーハトーヴォ』以来の菊池曉輝主宰の「宮沢賢治の会」の会員で 『農民芸術』その他に賢治についてのエッセイを寄せている鏑慎二郎は、 「あの人は、新しいことが好きで理想主義者だが、足が地についていない感じもしました。」と語った。 職業も転々としていたこともあって鏑だけでなく彼を知る人は余り信用していなかったようである。 ある時期賢治の高弟を自称していて一部では反感も持たれていたという。 彼れについてはいろいろな情報があるが、このテーマの解明のため必要な最小限度の記述にとどめる。

[上田哲・七尾短期大学「七尾論叢第11号」P89〜P85より・1996年]