「宮沢賢治伝」の再検証(二)―<悪女>にされた高瀬露―(3)




次に、 (2)小学校教員をしている女の人と森荘已池が書いているのは、高瀬露のことである。 この女性の本名が明らかにされたのは校本全集第十四巻(一九七七年刊)所収の堀尾青史執筆の年譜がはじめてといわれているが、 賢治研究者、愛好者、文学関係者、間には戦前からかなり広く知れ渡っていたのである。 ところが、彼女がどのような人物であったか、その生活振り経歴などについては殆ど知られていないのである。 彼女の冤罪的伝説を明かにするためにも出来るだけ客観的資料を使って詳しく紹介したい。  高瀬 露    生年月日 明治三十四年十二月二十九日    受洗月日 大正十九年九月二十四日       授洗牧師 佐藤卯右衛門 これは、日本キリスト教団花巻教会に遺っている当時の会員名簿の記録である。 また、彼女が控として持っていた「教員履歴書」の写によると   族籍 姓名 年齢の欄に    岩手県稗貫郡花巻町向小路二十七番地                 岩手県士族大五郎次女                     高  瀬  露               明治三十四年十二月二十九日生 と記載されている。向小路は本籍で実家の所在地でもあり、寳閑尋常小学校勤務時代はここから通っていたのである。 彼女の学業、免許状、教職歴は、「教員履歴書」では、一九三四年<昭和九年三月廿一日>までの事項の記録で終わっているので、 同じく控としてもっていた戦後の「教員個票」の写と併せながら彼女の経歴を辿ってみたい。  學業免許状   一九一八年<大正七年三月二十四日 岩手県立花巻高等女学校卒業>/   一九四八年<昭和二十三年八月十八日岩手県養護教諭養成所修了>   一九一八年<大正七年五月二十二日小学校准教員免許状>/   一九四六年<昭和二十一年十一月二十九日看護婦免許状>/   一九四八年<昭和二十三年八月十八日養護教諭仮免許状>/   一九五〇年<昭和二十五年九月三十日養護教諭二級普通免許状>  経歴事項   一九一八年<大正七年五月六日和賀郡黒澤尻尋常高等小學校代用教員ヲ命ズ>        <大正七年五月六日和賀郡黒澤尻尋常高等小學校准訓導ヲ命ズ>/   一九二〇年<大正九年八月十日任和賀郡笹間尋常高等小學校尋常科訓導但本科正教員勤務>/   一九二一年<八月十一日 願ニ依リ退職ヲ命ズ>    (どうして退職したのかは、わからないが帰郷し、二年間実家で過ごしている。そして再び教員生活に戻る。)   一九二三年<大正十二年九月二十一日任稗貫郡寳閑尋常小學校訓導但本科正教員勤務>   一九三二年<昭和七年三月三十一日任上閉伊郡上郷尋常高等小學校尋常科訓導但本科正教員勤務>    (この転任は、遠野の人小笠原牧夫と結婚のための転居によるものである。    「教員履歴書」の第一ページ上欄外に<昭和八年/六月三十日/免許状/書替小/笠原ト称ス>と書入れが見られる。)/   一九三四年<昭和九年三月廿一日上閉伊郡松崎尋常高等小學校訓導ニ補ス><松崎農業補修學校助教諭兼任>/   一九三五年<昭和十年五月十一日松崎尋常高等小學校看護婦ヲ嘱託スル>/   一九三六年<昭和十一年三月三十一日上閉伊郡青笹尋常高等小學校訓導ニ補ス         上閉伊郡青笹青年學校指導員ヲ嘱託スル>/   一九三八年<昭和十三年三月三十一日上閉伊郡綾織尋常高等小學校訓導ニ補ス>/   一九三九年<昭和十四年三月三十一日上閉伊郡東禅寺尋常高等小學校訓導ニ補ス>/   一九四〇年<昭和十五年三月三十一日遠野尋常高等小學校訓導ニ補ス>/   一九四四年<昭和十九年一月十四日願ニ依リ本職ヲ免ズ>(また一九四八年八月まで教職を退いている。)/   一九四八年<昭和二十三年八月三十一日上閉伊郡遠野小学校養護教諭、地方教官3級官>/   一九五〇年<昭和二十五年三月三十一日岩手県上閉伊郡青笹村公立学校教員に任命する         上閉伊郡青笹村立青笹小学校養護教諭に補する>/   一九五三年<昭和二十九年十二月一日遠野市教育委員会訓令第1号により遠野市公立学校教員に任命され         現に受ける級号に相当する給料を以て遠野市立青笹小学校養護教諭に補されたるものとす>/   一九六〇年<昭和三十五年三月一日願により本職を免ずる> 以上黒沢尻町の(現在は北上市)尋常高等小學校を振出しに遠野市の青笹小学校を退職するまで若干の断続はあったが 約四十年近い教員生活を了っている。 教職歴のところでも一寸ふれたが、一九三二年<昭和七年>四月十一日、岩手県上閉伊郡遠野町第六地割四番地の 小笠原牧夫と結婚し遠野へ移住した。花巻では教会の活動的信者であった彼女は一応遠野のバプテイスト教会へ転籍した。 一応というのは、外語学校を出た英語の先生という仲人の話で結婚したところある時期英語の講師をしたことがあったらしいが、 その時は鍋倉神社の神職であったのである。親は知っていたかも知れないが、本人は全く聞いていなかったのである。 日本のキリスト教徒は、少ないので同信の人々の中から適わしい配偶者を選ぶことは困難であり現代でも異宗間結婚は珍らしいことではない。 ただ、カトリック教会の場合は、結婚前に異宗教の相手を信者の婚約者と共に教会によび教会の教えの概略と 特に結婚についての教会の教えと倫理(例えば、禁欲法以外の避妊の禁止と理由を問わず中絶と離婚は認めない等々)を伝え、 結婚式は必ず教会で行い、結婚後も配偶者の信仰の義務(日曜のミサ出席など)、男女にかかわらず子供の洗礼と カトリック教理の学習を認めるという誓約書を出させる。こういうことをしていたので事前にチェックされて 牧夫が神職であることは判ったのだが、プロテスタントでは、そこまではしていなかったのである。 夫となった小笠原牧夫は、一八九三年(明治二十六年九月九日)生まれで露より八歳年上の三十九歳。露も三十一歳。 今更、逃げて帰るわけにもいかず彼女は悩んだという。幸い牧夫はやさしい性格で外語学校で英語を学んだだけあって ある程度の理解をもっていたようである。それで折々教会へ行くことも出来たが、周囲の圧力の方が強かった。 「神社へ嫁に来たのにヤソなどに行く。」と彼女への批難や妨害のいやがらせに耐えながら教会との連絡は保っていたが、 次第に教会への足は遠退かざるを得ない状況に追いつめられていった。しかし彼女はキリスト教の信仰を棄てたのではない。 それであるから教会を遠退いていることに対して負い目を抱きながら生活していた。 そして一九四五年敗戦を迎えた年の十二月十九日夫の牧夫が死去した。夫の死で彼女も次第に神社との縁が薄くなっていった。 教会生活への復帰を考えはじめていたところたまたま一九四九年スイス人の宣教師が、遠野町の旧家で醸造業を営んでいる 「M錬」の広間を借り教会の建物が出来るまでそこを伝導所としてお祈りの集まりやキリスト教の勉強会をしているということを聞き、 バプテスト教会の方は長く疎遠になっていて一寸行きずらい気もしていたのでカトリックの集まりとは知らず (スイスは新教の国という朧げな知識もあったので)、また旧家の「M錬」さんが部屋を貸している位だから 確かな人々の集まりだと考えて出席したのである。「M錬」は屋号でMがその家の姓であった。 この家の娘Yがカトリックに入信していたことからここが遠野での初めての伝導所となったのである。 当時盛岡市四ツ家町のカトリック教会をベースに遠野のほかにも県内各地へ教会を開設する準備のための巡回布教が行われていた。 露の婚家先の小笠原家の一族も旧南部藩の上級の士族の末裔と伝えられており小さな田舎町遠野では上流階級に属していた。 Y.Mは露より二十歳近く若くこれまで互に直接な交流はなかったが、四面楚歌的状況の中で生活していた露は、 暖かく迎えてくれたYの旧家のお嬢さんらしいおっとりして純な人柄に惹かれ次第に年齢を超えて親しい交流をもつようになった。 ところで出席して旧教であることを知って戸惑ったが、Y.Mがやさしく何かと世話してくれ、「M錬さん」で開かれている 集りなので途中で帰るわけにもいかず話しを聞いているうちに今まで知らなかったキリスト教の知識を得ていくらか旧教に興味を持った。 そしてバプテスト教会では、その時、その時に牧師が選んだテーマによる聖書の講議はあったが、体系的な教理の勉強はなかった。 ところが、カトリックでは『公教要理』という小型の問答体のテキストがありこれによって宗教とは何か、神とは、 神の存在の哲学的証明、三位一体、キリストとはなどを、それぞれの人々にあわせて個人毎に教えてくれるというので 一応やってみようと思った。それにこの教会にはY.Mのような人がいてくれるのが心強かった。 そうして納得のいくまで『公教要理』の学習をして一九五一年(昭和26)三月二十五日、昨年建ったばかりの教会で洗礼を受けた。 遠野にスイスのベトレヘム宣教会が布教をはじめてから四番目の受洗者であった。二人の娘たちも受洗した。
4号













堅振1953年5月10日

No.6










帰天1970年7月23日
(死去)

1951年3月25日

遠野教会において洗礼を受ける。

 小笠原   露

 出生1901年12月29日

 (filia) 高瀬大五郎とじゅん子の娘

本籍  遠野


現住所  Tono, 7 chiwari, 3 Banchi, 6machi

     (遠野 7地割    3番地   不明個所)

(Sub nomine)

霊名  モニカ    授洗者  フランツ ガイツセル

代母  Y.Mアグネス




署名者  フランツ ガイツセル  ベトレヘム外国宣教会士

遠野カトリック教会の「洗礼台帳」には上欄のような記載がある。(原本はラテン語なので和訳した。遠野教会設立以前の受洗者は、盛岡教会の台帳) 四号というのは、独立した教会になってからの四番目の意味。霊名とは、日本で俗にクリスチャンネームといわれているもの。 代母は、洗礼や堅振のサクラメントを受けるとき信仰の保証人、肉親の母に対して霊的生活の母という意味。男の場合は代父という。 一般に年上の者がなるのだが、年下のY.Mが代母になっている。 なおY.Mは、教会が出来てから遠野教会の附属幼稚園教諭や伝道婦(カテキスタ)をつとめていた。(現在、仙台の老人ホームに入所) 以上、戸籍関係の書類は入手が現在では困難なため、教会関係の記録や彼女自筆の履歴書の写しなどを中心にその生涯の概略を紹介した。 賢治の研究者や愛好者と言われる人の大方は彼女を<悪女>として受けとめている。 中には一方的に彼女のみを責めることに疑問をもち賢治の方にも問題があったのではないかという人も何人かはいるが、 それらの人々も彼女の賢治に対してとった行動についての伝説は肯定している。

[上田哲・七尾短期大学「七尾論叢第11号」P85〜P81より・1996年]