「宮沢賢治伝」の再検証(二)―<悪女>にされた高瀬露―(5)




次に森は、 (3)「彼女の思慕と恋情は焔のように燃えつのって」と書いているが、これは彼女の心の内奥の状態であって 森は知ることの出来ないものである。森は、高瀬露からその心情を聞いたのであろうか。 森は彼女に逢ったのは、<一九二八年の秋の日><下根子を訪ねた>(注 下根子とは賢治の羅須地人協会である) その時、彼女と一度あったのが初めの最後であった。その後一度もあっていないことは直接わたしは、同氏から聞いている。 なお、彼女にはじめて逢った時の様子を『宮沢賢治と三人の女性』(七四ページ、七五ページ)に 森は高瀬露についていろいろと書いているが、直接の見聞に基づいて書いたものは、 この個所だけであるから参考までに引用しておく。  一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであった。  国道から田圃路に入って行くと稲田のつきるところから、やがて左手に薮、右手に杉と雑木の混有林に入る。  静かな日差しのなかに木の枯れ葉が匂い、堰の水音がした。  ふと向こうから人のくる気配だった。私がそれと気づいたときは、そのひとは、もはや三四間向うにきていた。  (湿った道と、そのひとのはいているフェルトの草履が音をたてなかったのだ。)  私は目を真直ぐにあげて、そのひとを見た。二十二三才の女の人で和服だった。派手ではなかったが、上品な柄の着物だった。  私はその顔を見て異常だと直感した。目がきらきらと輝いていた。そして丸顔の両頬がかっかっと燃えるように赤かった。  全部の顔いろが小麦いろゆえ、燃える頬はりんごのように健康な色だった。  かなりの精神の昂奮でないと、ひとはこんなにからだ全体で上気するものではなかった。  歓喜とか、そういう単純なものを超えて、からだの中で焔が燃えさかっているような感じだった。  私はそれまで、この女の人についての知識はひとかけらも持ち合わせていなかった。  ――が、宮沢さんのところを訪ねて帰ってきたんだなと直感した。  私は半身、斜にかまえたような恰好で通り過ぎた。私はしばらく振り返って見ていたが、彼女は振り返らなかった。 森の「彼女の思慕と恋情は焔のように燃えつのって」は森の想像である。まあ、この程度の想像なら許す余地があるが、 儀府成一の『宮沢賢治・その愛と性』(一九七二年(昭和四七)一二月二五日芸術生活社刊)になると想像は更に拡大されていく。 (儀府は高瀬露のことを一応内村康江と仮名で書いている)  しかし康江の気持は、低い方へさそわれて流れ下る水のような自然さで、好意から思慕へ、思慕から恋愛感情へと、  急速に変化し、成長していった。それと気づかなかったのは、賢治だけである。  賢治が意識したとき、相手は目をぎらぎらさせて、いや目ばかりか全身を燃えたぎらせて、ぶつかりそうな近さに立っていた。  それはもはやまぎれもなく、成熟した性器を完全にそなえたひとりの異性であった。  賢治は戦慄した。今にもおっかぶさって来そうなその性器に――性器という感覚に。 こん度は、賢治の心情の内奥まで立入っている。これは想像というより下劣な儀府の心情の表現にすぎない。 このような本が研究書とよばれまかり通り研究文献目録に登載されている。 日本の文学研究のレベルの低さが悲しくなった。 なお、儀府は(内村康江はそのとき二十二か三で、顔も肌も小麦いろにちかく、若さと健康がピチピチあふれているような娘であった) と書いているが、彼は一度も露には逢っていない。彼が賢治と文通で交際をはじめたのは一九三〇年(昭和5)からで 初めて賢治に逢ったのは一九三二年(昭和7)である。彼の高瀬露についての記述は、森荘已池や関登久也、 高橋慶吾などの文章を下敷にして勝手にふやかしたものに過ぎない。 (内村康江はそのとき二十二か三)は前出の『宮沢賢治と三人の女性』から抄出紹介した部分によると思われる。 ただ、露は一九〇一年(明治34)生れだから<一九二八年の秋>二十七歳ぐらいであった。当時としては大年増女であった。 また高瀬露は、地味で控え目な人だったのでいつの年代でも年令より数年ふけて見えたというのが彼女を知る人の共通の印象であった。 二十七歳の年増の女性が二十二、三歳に見えたのは森の目のせいで仕方がないが、他人の書いたものを調べもせず丸写しにして 二十二か三とした儀府の姿勢は研究者とは言えない。  (4)朝早く賢治がまだ起床しない時間に訪ねてきたり、一日に二回も三回も遠いところをやってきたりするようになった。 遠いところをやってきたと森は、書いている。森は、引用文の初めの方で<花巻の西の方の村で小学校教員をしている女の人> と書いている。西の方の村というのは、一九五四年(昭和29)四月一日の市制施行にともなって花巻町ほか湯本、矢沢、 宮野目、太田の各村と合併するまでは湯口村といっていた地域であろう。村の小学校というのは、寳閑尋常小学校であった。 当時の所在地名は湯口村字鍋倉で一八八九年(明治22)の市町村制施行以前は鍋倉村という小さな村であった。 現在の花巻南インターの附近、熊堂の古墳群の辺りと聞いているが、学校は廃校になって跡形はない。 森は、遠いところと彼女が学校の附近に住んでいたように想定しているが、湯口村の何処に住んでいたかによって違うが 花巻駅までは四キロから五キロ、賢治が住んでいた羅須地人協会までは五キロ以上六キロは離れているので、 何もしないで交通機関のない当時往復するだけで二時間前後はかかるのである。 掃除や朝の支度などのためにやって来るのでなければ意味がない。そうだとすると三時間はかかる。 無職の人ならよいが、八時ごろには学校に出勤していなければならない。 もっとも日曜や休日なら出来ないこともないが、それでも大変なことである。 それはよいとして、一日に二回も三回も遠いところをやってきたりするようになった。といっているが、 そういうことの出来るような距離ではないのである。 (森は、高瀬のこのような異常な訪問をどうして知ったのであろうか。これについては、次章「ライスカレー事件」で詳述する。)

[上田哲・七尾短期大学「七尾論叢第11号」P78〜P75より・1996年]