「宮沢賢治伝」の再検証(二)―<悪女>にされた高瀬露―(6)




拙稿の初めの方で紹介した「履歴書」の記載でもわかるように向小路二十七番地の実家から通学していたのである。 向小路なら羅須地人協会まで一〇分以内でいける。片道の約六キロが省けるから朝早く訪ね一仕事して通勤することも不可能ではない。 勤めを持つ身で「一日に二回も三回も遠いところからやって」くることは、出来ない。 彼女が、夜の訪問を賢治にたしなめられたと高橋慶吾宛の手紙に書いているが、これは勤めを持つ身で 昼間の訪問が出来なかったことを示している。それは、さておき、露の頻繁な訪問に困惑してしまった賢治が  (5)「本日不在」の札を門口に貼った。顔に墨を塗って会った。  (7)「私はレプラです」    恐らく、このひとことが、手ひどい打撃を彼女に与え、心臓を突き刺し、二度とふたたびやってこないに    違いないと、彼は考えたのだ。 この個所を儀府成一は『宮沢賢治・その愛と性』の中でもっとくわしく書いている。  ……あくる日の羅須地人協会の入口には、「本日不在」の木の札が下げられた。 その木の札が、十日も掛けられっぱなしになっていることもあった。  (注・儀府は、羅須地人協会のあったころは、賢治と交際がなく、一度も羅須地人協会を訪ねたことはない。) 居るすをつかい、嘘をつき、逃げかくれた。つかまると、賢治は顔じゅうに灰やスミを塗り、 わざとぼろをまとって乞食の風を粧い、彼女の前にあらわれた。  (注・居留守も使えぬ不意打ちの訪問で顔を合せた賢治が一たん引込み台所に行き灰やスミを塗り、   どこかでボロ服に着替えて露に逢ったということになる。儀府氏は、作家である。   作家ならもう少しリアリティと説得性のあるフィクションを書いたらよかった。) 高瀬露の訪問が迷惑であるなら迷惑であるから来ないでくれと言うことも出来たはずである。 現に、賢治が、訪ねて来た高瀬露に「女一人デ来テハイケマセン」といっているのである。 これは、高瀬露が高橋慶吾に宛てた一九二七年<昭和二年六月九日>付消印のあるはがきに彼女自身が書いている。 この手紙は、小倉豊文の『「雨ニモマケズ手帳」新考―増訂宮沢賢治の手帳研究』(一九七八年(昭和53)一二月 東京創元社刊) に初めて発表されたものである。  高橋サン、ゴメンナサイ。宮沢先生ノ所カラオソクカヘリマシタ。  ソレデ母ニ心配カケルト思ヒマシテ、オ寄リシナイデキマシタ。  先生ノ所デタクサン讃美歌ヲ歌ヒマシタ。  クリームノ入ツタパントマツ赤ナリンゴモゴチソウニナリマシタ。  カヘリハズツト送ツテ下サイマシタ。  ベートベンノ曲ヲレコードデ聞カセテ下サルト仰言ツタノガ、モウ暗クナツタノデ早々カヘツテ来マシタ。  先生ハ「女一人デ来テハイケマセン」ト云ハレタノデガツカリシマシタ。  私ハイイオ婆サンナノニ先生ニ信ジテイタダケナカツタヤウデ一寸マゴツキマシタ。  アトハオ伺ヒ出来ナイデセウネ。デハゴキゲンヤウ。六月九日、T子。 賢治は、詩人として普通の人と違う変わった所があったかも知れないがそれほど常識はずれの人ではなかった。 「本人不在」の札を出して居留守を装うような幼稚な姑息な手段を使うような卑屈な人だったのだろうか。 「本人不在」の札を十日も出しっ放しにしておいたら大切な用事をもってきた人に迷惑をかけることがあるかも知れない。 また自分にとっても不利益や困ったことが生ずることがあるかも知れない。 こういうことに考えが及ばない莫迦な人だったのだろうか。 ましてや顔に墨や灰を塗ったり、乞食の真似をしたり、レプラだといったり、その様な馬鹿げたことをしたであろうか。 もし、そんなことをしたらE.K氏のいうような誇り高い女性だった高瀬露は、賢治を軽蔑して、 没後賢治を師としてたたえる短歌を作ったり、生涯賢治を先生とよんだりはしなかったろう。  (6)仕方なく彼が帰ろうとすると、俄かに座敷の奥の押入の襖があいて、    何とも名状しがたい表情の賢治があらわれ出たのであった。    彼女の来訪を知って賢治は素早く押入の中に隠れていたのであった。 これは、高瀬露が来た気配で賢治が押入れに隠れた。そこへ教え子が訪ねて来た。賢治の姿が見えないので帰ろうとすると 押入れからあわてて出て来たという。出てくるくらいなら隠れなくてもよかった。無意味な行動をしたものである。 俗にいう阿呆なことである。賢治はそんなおろかなことをする人間だったのだろうか。 よく読んでみるといろいろ疑問点や矛盾点が出てくる。不自然な話である。 そのことを古くからの賢治研究家である鏑慎二郎に話したところ、 わたしもあなたと同じような疑問をもっていました。どうもこの話は作り話臭いところがあります。 火のないところに煙は立たないから全部否定はしませんがといって次のようなことを語ってくれた。  昔、田舎は娯楽が乏しかったので男と女の間のことについての噂話は大きな娯楽でした。  それほどのことでない話も村中をまわりまわっているうちに拡大され野卑な尾鰭背鰭がいくつもついて  バトンタッチ毎に変形されるから元は一つの話でもあきられず村中を何回もまわることがあります。  高瀬露が賢治のところをしばしば訪ねていたとしたら、こういう噂話の好きな人々の間では恰好の材料だっただろう。  昔は、先生や役人は雲の上の人。賢治も露も二人とも先生でした。  「先生だって……」と先生やお役人のこの種の噂は特に好まれました。  こうして賢治と露の話は村中にひろがっていったようです。  ただ、田舎におけるこの種の話は直接的でいくら尾鰭がついても基本的には、単純な構成であるのに  賢治と露の話はストリー性があるんです。それから田舎のこういう噂話は大体、村や部落の範囲をめぐっているだけなのに  賢治と露の話の場合は、間を飛んで町の方しかも賢治にかかわりをもつ人々の住む町に伝わっているんです。  この噂話は、田舎の人が作ったのではなく……あるいは田舎の人でも都会生活の経験者が作ったのかも知れない。  また、伝わり方も誰かあやつっている人がいるような気もする。 このような内容であった。現代的にいえば何者かがシナリオを作り、意図的な情報操作が行なわれていたようだという指摘である。 なお、(8)の部分も森の想像で、露がこのような心情を語ったのでない。

[上田哲・七尾短期大学「七尾論叢第11号」P75〜P73より・1996年]